スタジオジブリの映画『もののけ姫』に登場する乙事主(おっことぬし)は、鎮西から仲間を率いてシシ神の森へやって来た、巨大な白い猪神です。齢500歳という長老であり、4本の牙と威厳ある声が印象的な存在ですが、物語の終盤では人間への怒りと深い絶望からタタリ神になりかけ、悲劇的な最期を迎えます。
2026年6月24日には同作の4K UHDが発売され、公開から長い年月が経った今も、作品に込められた自然と人間の対立というテーマは色あせていません。スタジオジブリの公式作品情報で声の出演として紹介されているのは森繁久彌。加えて、宮崎駿監督がモロとの関係について明かした裏設定や、乙事主の名前の由来にも興味深い背景があります。
【正体を解説】乙事主は何者?読み方・年齢500歳・声優のプロフィール

乙事主の読み方は「おっことぬし」です。『もののけ姫』に登場する猪神の長老で、鎮西を治める王として描かれています。鎮西とは九州を指す歴史的な呼称であり、乙事主は遠方から猪神の一族を率いてシシ神の森へやって来た存在です。
その姿は、白い毛並みと巨大な体、左右に2本ずつ生えた計4本の牙が特徴的です。冒頭に登場するナゴの守と同じく、人間の営みによって追い詰められた自然側の神ですが、乙事主には長い年月を生き抜いてきた者ならではの威厳があります。
年齢は500歳。この設定は、スタジオジブリ公式SNSで紹介されたキャラクターに関する質問と回答を通じて広く知られるようになりました。山犬のモロは300歳とされており、乙事主のほうが200歳年上です。人間の尺度では考えられない長寿ですが、物語ではその年齢が単なる数字ではなく、老いと衰退の象徴としても機能しています。
声優を務めたのは、俳優・歌手として幅広く活躍した森繁久彌です。スタジオジブリ公式の作品情報にも、乙事主の声の出演者として名前が記載されています。重厚で落ち着いた声は、長い歴史を背負った猪神の威厳と、仲間を守ろうとする長老の責任感を印象づけています。
また、乙事主は目が見えないキャラクターです。劇中ではサンが「乙事主さまの目になりに行きます」と申し出る場面があり、視力を失っていることが明確になります。500歳という老齢との結びつきが自然に読み取れる設定ですが、具体的な病名や医学的な原因までは物語で説明されていません。
【プロフィール比較】乙事主・モロ・ナゴの守の違いとは?
乙事主を理解するには、同じく森を守る神々との違いを整理するのが近道です。特に重要なのは、モロとの思想の違いと、ナゴの守とのつながりです。3者はいずれも人間の活動によって脅かされる自然側の存在ですが、立場や物語上の役割は異なります。
| 項目 | 乙事主 | モロの君 | ナゴの守 |
|---|---|---|---|
| 種族 | 猪神 | 山犬の神 | 猪神 |
| 年齢 | 500歳 | 300歳 | 明確な年齢設定は広く知られていない |
| 声の出演 | 森繁久彌 | 美輪明宏 | 佐藤允 |
| 主な立場 | 鎮西の猪神たちを率いる長老 | 山犬の一族を率いる母親的存在 | 人間との戦いでタタリ神となった猪神 |
| 人間への姿勢 | 強い怒りを抱き、正面から戦おうとする | 人間を憎みながらも、状況を見極めて行動する | 人間への憎悪にのみ込まれ、村を襲う |
| 物語上の役割 | 誇りと怒りが悲劇へ変わる姿を示す | 森の神々の意志と誇りを示す | 憎悪がタタリ神を生み出す発端となる |
ナゴの守は、アシタカの故郷を襲ったタタリ神の正体です。人間によって傷つけられ、憎悪を募らせた末にタタリ神となり、アシタカに討たれました。乙事主は、そのナゴの守と同じ猪神の一族に属する存在です。
なお、ナゴの守と乙事主の間に親子などの具体的な血縁関係があるとは、映画では説明されていません。物語上の重要なつながりは、同じ猪神の側に立つ仲間であり、ナゴの守の死が乙事主の行動を大きく左右する点にあります。
【モロとの関係】かつて親密だった2人に隠された裏設定
乙事主とモロの関係は、映画を見ただけではすべてを把握できない部分です。2人は種族こそ違いますが、森を脅かす人間を憎むという点では共通しています。乙事主が登場した際、モロが「乙事主だ。少しは話の分かるやつが来た」といった趣旨の反応を示すのも、互いを知り尽くした者同士の空気を感じさせます。
この関係については、宮崎駿監督がモロを演じた美輪明宏に演技指導をする際、乙事主とモロは昔、親密な仲だったと説明したエピソードが知られています。制作ドキュメンタリーや関連資料を紹介する「ジブリのせかい」などでも取り上げられている裏設定です。
伝えられている設定では、2人はかつて「いい仲」であり、約100年前に別れています。年齢設定と合わせて考えると、乙事主が500歳、モロが300歳という年齢差のある関係です。劇中で恋愛物語が展開するわけではありませんが、モロの言葉に含まれる親しみや複雑な感情を読み解く手がかりになります。
ただし、2人が別れた具体的な理由は明らかにされていません。人間への対抗方針や、それぞれの一族を率いる立場の違いを重ねて考えることはできますが、特定の出来事が破局の原因だったと断定することはできません。
乙事主は大勢の猪神を率い、人間と正面から戦う道を選びます。一方のモロは、人間を憎みながらも、戦いの先に何が起きるのかを見据えています。モロが乙事主に警告する場面には、長い時間を共有してきた相手だからこそ、その決断の危うさが分かるという解釈も成り立ちます。
この関係が興味深いのは、自然を守るという目的が同じでも、守り方まで一致するわけではないことです。かつて親密だった2人の距離は、森の神々が抱える葛藤をより人間的に浮かび上がらせています。
【タタリ神になる理由】ナゴの守への怒りと乙事主を追い詰めた絶望
乙事主がタタリ神になりかける直接的な背景には、人間との戦いによる負傷と、仲間を失う絶望があります。しかし、その変貌を単に「怒ったから」と説明するだけでは、物語の核心を見落としてしまいます。
発端となるのは、仲間のナゴの守がタタリ神となり、アシタカに討たれたことです。乙事主にとってナゴの守の死は、一族の仲間を失った悲劇であると同時に、人間によって神々が追い詰められている現実を突きつける出来事でもあります。
乙事主は、仲間を率いてシシ神の森へ向かい、エボシ御前たち人間と戦います。しかし、石火矢などの武器によって猪神たちは傷つき、多くの仲間が命を落とします。長老として一族を守るはずだった乙事主は、戦いの中でその責任を果たせなくなっていきます。
さらに悲劇的なのが、終盤のジバシリたちとの遭遇です。人間たちは、死んだ猪神の皮をまとって行動していました。視力を失った乙事主は、彼らを仲間が戻ってきたかのように受け取ります。しかし、目の前にいるのは生き残った仲間ではなく、仲間の姿を利用する人間たちでした。
この場面は、乙事主の盲目という設定が物語の悲劇に直結する瞬間です。老いた長老の判断力が単純に衰えたというだけではありません。仲間を失い続けた末に、仲間が戻ってきたという希望にすがりたい心理と、視覚で確かめられない状況が重なっています。
その結果、乙事主は憎悪と絶望にのみ込まれ、身体からタタリ神特有の黒い触手状のものが広がり始めます。タタリ神とは、強い苦痛や恨みなどに支配され、災厄をもたらす存在へ変貌した神の姿です。作中で変貌の仕組みが体系的に説明されるわけではありませんが、ナゴの守と乙事主の描写からは、苦しみと憎悪が神をも破滅へ向かわせることが読み取れます。
乙事主の名セリフや印象的な場面を考える際にも、この経緯は欠かせません。サンが「乙事主さまの目になりに行きます」と申し出る場面は、乙事主を守ろうとする気持ちを示しています。しかし、サンの善意だけでは、戦いによって積み重なった絶望を取り除くことはできません。乙事主の悲劇は、個人の勇気や善意だけでは止められない憎悪の連鎖を描いているのです。
【最期と死亡シーン】乙事主はなぜシシ神に救われなかったのか
乙事主の最期は、『もののけ姫』の中でも特に重い意味を持つ場面です。人間との戦いで傷つき、タタリ神へと変貌しかけた乙事主は、サンとともにシシ神のもとへ向かいます。しかし、シシ神に触れられた乙事主は命を落とします。
ここで重要なのは、シシ神が必ずしも傷ついた者を救う存在として描かれているわけではないことです。シシ神は命を与える一方で、命を奪う存在でもあります。アシタカの傷が癒やされたからといって、乙事主も同じように助かるとは限りません。
乙事主がシシ神に期待したものは、傷の回復だけではなく、タタリ神になりかけた自分や、一族の苦境を何とかする力だったとも考えられます。しかし、シシ神は人間と神々の争いにおける味方として振る舞うわけではありません。作中では、乙事主を罰するために命を奪ったと説明されているわけでもありません。
この違いは、ナゴの守の死をめぐる猪神たちの不満ともつながります。なぜシシ神はナゴの守を救わず、アシタカの傷を癒やしたのか。猪神たちはその不公平さに怒りを募らせますが、シシ神が人間と神々を区別し、どちらか一方の正義を支持する存在だとは描かれていません。
乙事主の死は、善悪を裁く神による処罰というより、命の循環から逃れられない存在の悲劇として読むことができます。人間への怒りを抱えたまま、仲間を守るという目的さえ失いかけた乙事主は、かつての威厳を保ったまま生き続けることができなくなります。
また、乙事主が完全なタタリ神となって人間への復讐を果たすのではなく、シシ神のもとで命を終える展開も重要です。ナゴの守から始まった憎悪の連鎖は、乙事主によってさらに拡大するのではなく、悲劇的な形で断ち切られます。その結末は、復讐によって森が救われるわけではないという作品の厳しい視点を際立たせています。
【モデルと由来】乙事主の名前・盲目・性格に込められた意味
乙事主の名前の由来として知られているのが、長野県諏訪郡富士見町にある「乙事(おっこと)」という地名です。宮崎駿監督の山小屋がある信州の地名から、エボシ御前や甲六などの名前が生まれたことは、関連資料でも紹介されています。乙事主もその一例とされています。
一方、乙事主の姿そのものについては、日本の神話や民俗信仰との関連を考察する見方もあります。2025年にCINRAが掲載した民俗学的な考察では、猪に乗る姿で知られる仏教の守護神・摩利支天との関連が論じられました。ただし、これは研究的な視点からの仮説であり、スタジオジブリが乙事主の直接的なモデルとして公式に確定した設定ではありません。
乙事主の性格には、誇り高さ、責任感、仲間への思い、そして譲れない信念が表れています。自分が率いる一族を守るために戦う姿は、長老としての責務を果たそうとするものです。しかし、戦況が悪化しても人間との正面衝突を選び続ける姿勢には、誇りが強すぎるがゆえの危うさもあります。
モロとの比較から見えてくるのは、同じ敵を憎む者同士でも、状況への向き合い方は異なるということです。乙事主は一族を率いて戦うことに活路を見いだそうとしますが、モロは人間への憎しみを持ちながらも、乙事主の選択に全面的には同調しません。2人の違いは、単純な勇敢さと臆病さの対比ではなく、滅びゆく神々がそれぞれ異なる形で現実に抗う姿として描かれています。
また、目が見えないという設定は、乙事主の強さと弱さを同時に示しています。嗅覚などを頼りに周囲を把握し、長い年月を生き抜いてきた一方、仲間を失った極限状態では、目の前の人間を仲間と誤認してしまいます。視力の喪失は単なる外見上の特徴ではなく、老いと絶望が重なる悲劇を成立させる要素なのです。
乙事主の物語は、自然を守る側が常に正しく、強い力を持てば必ず勝てるという単純な構図ではありません。人間の開発が森を追い詰める一方、森の神々も怒りに支配されれば、自分たちの尊厳や生きる目的を失ってしまいます。乙事主の悲劇は、自然と人間の対立が、どちらか一方を打ち負かすだけでは解決しないことを示しています。
【もののけ姫乙事主】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:乙事主の読み方は「おっことぬし」で合っていますか?
A1:はい。「おっことぬし」と読みます。鎮西の猪神たちを率いる長老で、白い巨体と4本の牙が特徴です。
Q2:乙事主の年齢は本当に500歳ですか?
A2:はい。スタジオジブリ公式SNSで紹介された設定では500歳とされています。モロは300歳という設定で、乙事主のほうが200歳年上です。
Q3:乙事主の声優は誰ですか?
A3:森繁久彌です。スタジオジブリ公式の作品情報でも、乙事主の声の出演者として紹介されています。
Q4:乙事主とモロは恋人同士だったのですか?
A4:宮崎駿監督がモロの演技指導の際、2人は昔、親密な仲だったと説明した裏設定が知られています。約100年前に別れたとされていますが、別れた具体的な理由は明らかにされていません。
Q5:乙事主はなぜタタリ神になったのですか?
A5:人間との戦いで負傷し、多くの仲間を失ったうえ、仲間の皮をまとった人間を見て絶望したことが大きな要因です。怒りや憎悪にのみ込まれ、タタリ神へと変貌しかけました。
Q6:乙事主は最後に死亡したのですか?
A6:はい。タタリ神になりかけた乙事主はシシ神のもとへ向かい、シシ神に触れられて命を落とします。シシ神が乙事主を罰したと明言されているわけではなく、命を与えることも奪うこともある存在として描かれています。
Q7:乙事主の目が見えない理由は何ですか?
A7:作中では視力を失っていることが示され、500歳という老齢との関係がうかがえます。ただし、具体的な病名や医学的な原因は明言されていません。
乙事主は、500歳という長い年月を生き、猪神の一族を率いてきた誇り高い長老です。森を脅かす人間に立ち向かう姿には、仲間を守ろうとする責任感があります。しかし、ナゴの守の死をきっかけに強まった怒りは、人間との戦いで仲間を失うにつれて絶望へと変わり、ついにはタタリ神になりかける悲劇を招きます。
モロとの過去の関係は、乙事主が単なる戦闘的な猪神ではなく、長い年月の中で他者とのつながりを築いてきた存在であることを示しています。また、シシ神に触れられて命を落とす最期は、自然の神々であっても、憎悪と死の連鎖から自由ではないことを印象づけます。
乙事主を読み解くうえで大切なのは、人間か自然かという二者択一だけで物語を捉えないことです。人間による森の破壊は確かに悲劇の背景にありますが、怒りだけで戦い続ければ、守ろうとしたものさえ失いかねません。乙事主の最期は、正義や誇りを掲げることと、憎しみに身を任せることの違いを問いかけています。
2026年に改めて『もののけ姫』を見直すなら、乙事主の登場から最期までを、単なる敵役の敗北として片づけず、老い、仲間への責任、異なる立場の者同士の対立という複数の視点から追ってみてください。そうすることで、森を守ろうとした長老がなぜ悲劇的な結末へ向かったのか、そして作品が自然と人間の共存について何を問いかけているのかが、より鮮明に見えてきます。