プロ野球の歴史に名を刻む関根潤三は、投手として勝ち星を積み重ね、打者としても1000本安打を達成した異色の名選手だ。1927年3月15日に生まれ、法政大学から近鉄パールス(現・球団の歴史を継ぐオリックス・バファローズとは別系統の近鉄球団)に入団。投手と野手の両方でオールスターゲームのファン投票選出を果たし、2003年には野球殿堂入りを果たした。現役引退後もコーチ、監督、野球解説者として長く球界に携わり、2020年4月9日に93歳で亡くなった。
関根潤三の経歴をたどると、投手としての通算65勝、打者としての通算1137安打という数字だけでは見えてこない魅力が浮かび上がる。法政大学時代に築いた実績、近鉄での打者転向、巨人で迎えた現役最終年、そして大洋・ヤクルトの監督として若手を育てた歩みまで、野球人生を時系列で整理する。選手と指導者、さらに解説者という三つの立場を経験した関根が、球界に何を残したのかを振り返りたい。
【経歴】法政大学野球部で磨いた実力と根本陸夫とのバッテリー

関根潤三の野球人生は、大学時代から際立っていた。旧制日大三中(現在の日大三高)を経て法政大学経済学部に進学すると、東京六大学野球リーグで左腕エースとして活躍。藤田監督の下で4年間にわたりチームを支え、大学野球の歴史に残る成績を挙げた。
東京六大学リーグでの通算成績は、79試合登板、41勝30敗、658イニング。1948年秋季リーグでは、戦後初となる法政大学のリーグ優勝に貢献した。1949年春季には主将を務め、同年秋季にはリーグ通算40勝に到達。戦後初、史上2人目となる記録を打ち立てた。
当時の大学野球は、エースが連投し、先発した試合を最後まで投げ切ることも珍しくない時代だった。関根は1949年秋季だけで133回2/3を投げており、長いイニングを任される投手としてチームの中心に立っていた。現在のように投手の分業が一般化した環境とは異なり、登板機会の多さと完投能力がチームの勝敗を大きく左右していたのである。
また、関根を語るうえで欠かせない人物が、後にプロ野球の指導者や球団経営者として知られる根本陸夫だ。2人は旧制中学時代からの縁があり、大学時代にはバッテリーを組んだ。投手の関根と捕手の根本という関係は、関根が打者へ転向した後も、野球人としての歩みを考えるうえで興味深い接点となっている。
1949年秋には、来日したサンフランシスコ・シールズとの試合で関根が六大学選抜軍の投手として登板し、延長13回を投げた。試合は2対4で敗れたものの、長いイニングを投げ抜く能力を示した一戦として野球殿堂博物館の顕彰資料にも記録されている。
【現役時代】近鉄で投手から打者へ、巨人で迎えた最後のシーズン
1950年、関根潤三は近鉄パールスに入団し、プロ野球選手としてのキャリアをスタートさせた。当初の主戦場は投手だった。1953年にはオールスターゲームに投手としてファン投票で選出され、1950年代前半には3年連続の2桁勝利も記録している。
ところが、1957年に大きな転機が訪れる。関根は投手中心のキャリアから打者へと比重を移し、この年には投手として2試合に登板する一方、野手として125試合に出場した。翌1958年以降は打者に専念し、外野手として存在感を発揮していく。
関根のすごさは、単に投手経験のある打者だったことではない。投手として通算65勝を挙げたうえで、打者としても通算1137安打を積み上げた点にある。プロの一軍で投打それぞれの役割を担い、異なる能力を求められる二つのポジションで実績を残した。
打者としての代表的なシーズンの一つが1962年だ。近鉄で126試合に出場し、144安打、打率.310を記録。翌1963年には144試合に出場して150安打、12本塁打、打率.296を残した。長打だけに頼らず、安定して安打を積み重ねる打撃が特徴だった。
1963年には、オールスターゲームで野手としてファン投票選出を果たす。1953年の投手選出と合わせ、投手・野手の両部門でファン投票による選出を経験した初の選手として、その名を歴史に残した。二刀流という言葉が広く知られるようになる以前から、投打の両面でファンの支持を得ていたのである。
1965年には読売ジャイアンツへ移籍し、この年限りで現役を引退した。巨人での在籍は1シーズンだったが、近鉄で築いた長い選手生活を締めくくる節目となった。
【記録と年表】関根潤三の通算成績・オールスター・殿堂入り
関根潤三の実績を把握するには、大学時代からプロ引退後までを時系列で見ると分かりやすい。野球殿堂博物館の顕彰資料と日本野球機構(NPB)の年度別成績を基に、主要な出来事を整理した。
| 時期 | 主な出来事 | 記録・実績 |
|---|---|---|
| 1927年3月15日 | 誕生 | 東京都出身 |
| 大学時代 | 法政大学で投手として活躍 | 東京六大学リーグ通算41勝30敗、658イニング |
| 1948年秋 | 法政大学のリーグ優勝に貢献 | 戦後初のリーグ優勝 |
| 1950年 | 近鉄パールスに入団 | 投手としてプロ生活を開始 |
| 1953年 | オールスターに投手として選出 | ファン投票による選出 |
| 1957年 | 打者への転向を進める | 野手として125試合に出場 |
| 1963年 | オールスターに野手として選出 | 投手・野手両部門でのファン投票選出を達成 |
| 1965年 | 巨人へ移籍し現役引退 | プロ通算1417試合出場 |
| 1970年代 | コーチ、ヘッドコーチ、二軍監督などを歴任 | 広島や巨人で指導者として活動 |
| 1982~1984年 | 大洋の監督を務める | 1983年にセ・リーグ3位 |
| 1987~1989年 | ヤクルトの監督を務める | 若手選手の育成に取り組む |
| 2003年 | 野球殿堂入り | 競技者として表彰 |
| 2020年4月9日 | 逝去 | 93歳 |
プロ通算成績は、投手として244試合に登板し65勝94敗、防御率3.42、645奪三振。打者としては1417試合に出場し、4078打数1137安打、59本塁打、424打点、打率.279を記録した。
「通算50勝」と「1000本安打」は、関根の二刀流を象徴する数字だ。ただし、実際の投手通算勝利数は50勝ちょうどではなく65勝である。打者としても1000本を超える1137安打を記録しており、投打それぞれで一軍選手としての実績を残したことが分かる。
2003年には野球殿堂入りを果たした。顕彰の対象となったのは、現役時代の投打にわたる実績だけではない。引退後の指導者としての活動、さらに長年にわたる野球解説者としての貢献も、関根の野球人生を語る重要な要素となっている。
【監督としての実績】大洋・ヤクルトで若手を育てた関根流の指導
現役引退後の関根は、指導者としても球界に深く関わった。1970年には広島のコーチとして山本浩二や衣笠祥雄らの指導に携わり、1975年には巨人のヘッドコーチ、1976年には二軍監督を務めた。投手と打者の両方を経験した視点は、選手の能力や課題を理解するうえでも生かされた。
1982年には大洋ホエールズの監督に就任。3年間の指揮で通算160勝203敗27分けを記録した。1983年にはリーグ3位に入り、遠藤一彦、屋敷要、高木豊らの選手が活躍するチームを率いた。一方、1984年はリーグ6位に終わり、監督としての成績はシーズンごとに浮き沈みがあった。
1987年にはヤクルトスワローズの監督に就任し、1989年まで指揮を執った。3年間の通算成績は171勝205敗14分け。チーム順位だけを見れば優勝監督ではなかったが、池山隆寛、広沢克己、栗山英樹、伊東昭光ら若い選手を積極的に起用し、将来のチームを担う人材の成長を促した。
関根の指導者としての評価を考える際には、勝敗だけでなく、どの選手を起用し、どのように戦力を育てたかにも目を向けたい。ヤクルトは後に野村克也監督の下で黄金期を築くことになるが、その前段階で若手が経験を積む環境をつくった点は、球団史の流れの中で意味を持つ。
監督としての通算成績は780試合で331勝408敗41分け、勝率.448。最高順位は大洋時代の3位だった。優勝回数だけで評価するなら実績は限定的だが、指導者として複数球団に携わり、選手の成長を支えたことは関根のキャリアの重要な一面である。
【野球解説者】穏やかな語り口と鋭い観察眼で伝えた野球の面白さ
関根潤三は、現場を離れた後も野球ファンに親しまれた解説者だった。テレビの「プロ野球ニュース」や、ニッポン放送の「ショウアップナイター」などで長く解説を担当。報道では、同局の野球中継で約50年にわたって活動したことが伝えられている。
関根の解説は、穏やかな話し方と、選手のわずかな変化を見逃さない観察眼が特徴だった。日刊スポーツの訃報記事では、長年コンビを組んだ実況アナウンサーの証言を通じて、投手の球の変化などから異変を察知する洞察力が紹介されている。
その背景には、投手として試合を組み立てた経験と、打者として相手投手と対峙した経験の両方がある。投手の配球や体力面の変化を考える一方、打者が何を狙い、どの球に反応するのかも理解できる。関根の解説には、異なる立場から野球を見てきた選手ならではの視点があった。
また、専門的な知識を持ちながら、難しい理論ばかりを前面に出さず、野球の楽しさを伝える姿勢も評価されていた。試合中の一つのプレーを技術論だけで説明するのではなく、観戦する側が面白さを感じられるように伝える。長年の放送活動は、関根が選手や監督という枠を超えて、野球文化を支えたことを示している。
【プロの結論】関根潤三の二刀流は何が特別だったのか
関根潤三の功績を評価するうえで大切なのは、現代の二刀流選手と単純に比較するのではなく、当時の野球環境の中で投手と野手の両方に実績を残した意味を理解することだ。
現在のプロ野球では、投手と野手を兼ねる選手を育成する際、登板間隔や打席数、身体への負担などを細かく管理する。対して関根が活躍した時代は、選手の役割分担も現在とは異なり、先発投手が長いイニングを投げることが一般的だった。その環境で投手として65勝を挙げ、打者として1137安打を記録したことは、投打双方で高い水準の能力を発揮した証しである。
加えて、オールスターで投手と野手の両方としてファン投票選出を経験した点は、単に複数のポジションをこなせたという記録にとどまらない。異なる役割でファンに実力を認められたことを意味している。1953年の投手選出から1963年の野手選出まで、長い現役生活の中で評価を築いた点にも注目したい。
一方、監督としてはリーグ優勝を果たしておらず、通算成績だけを見れば勝ち越しにも届いていない。関根を無条件に「名将」と評価するより、選手としての突出した実績、若手育成への貢献、長年にわたる解説活動を分けて考える方が、その功績を正確に理解できる。
野球殿堂入りも、単一の記録だけで説明できるものではない。投手としての実績、打者としての実績、指導者としての活動、そして解説者として野球の魅力を伝えた歩み。その積み重ねが、関根潤三という野球人の評価を形づくっている。
【関根潤三】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:関根潤三の現役時代の通算成績は?
A1:投手として通算65勝94敗、防御率3.42、645奪三振を記録しました。打者としては通算1137安打、59本塁打、424打点、打率.279を残しています。投打の両方で一軍の公式戦に出場したことが大きな特徴です。
Q2:関根潤三が二刀流と呼ばれる理由は?
A2:投手として65勝を挙げる一方、打者として1000本を超える1137安打を記録したためです。さらに1953年には投手、1963年には野手としてオールスターゲームのファン投票で選出され、両部門で選ばれた初の選手となりました。
Q3:関根潤三は監督として優勝したことがある?
A3:大洋とヤクルトの監督を務めましたが、リーグ優勝はありません。監督通算成績は331勝408敗41分けで、最高順位は1983年の大洋時代に記録したリーグ3位です。若手選手を積極的に起用し、後のチームを支える人材の育成に携わった点でも知られています。
関根潤三は、法政大学のエースとして東京六大学リーグ通算41勝を挙げ、近鉄でプロ入りした後、投手として65勝、打者として1137安打を記録した。1953年と1963年には投手・野手の両部門でオールスターのファン投票選出を果たし、1965年に巨人で現役を引退した。
引退後は広島や巨人で指導者を務め、大洋とヤクルトの監督として若手の育成に取り組んだ。加えて、テレビやラジオの解説者として長く野球の魅力を伝え、2003年には野球殿堂入り。2020年4月9日に93歳で亡くなるまで、選手、指導者、解説者という三つの立場で球界に関わり続けた。
関根潤三の生涯から読み取れるのは、野球人としての価値が通算勝利数や優勝回数だけでは決まらないということだ。投打の両方で残した記録、次世代の選手を育てた経験、そして野球を分かりやすく伝えた解説活動。そのすべてが重なって、関根潤三の名を日本プロ野球史に残している。