ジャイアント馬場さんは、1999年1月31日、61歳で亡くなりました。公表されている死因は肝不全です。その背景には、上行結腸腺がん(大腸がん)が肝臓に転移していたという深刻な病状がありました。亡くなる約2か月前には体調の異変が表面化し、1998年12月5日の日本武道館大会が生涯最後の試合となっています。
当時、全日本プロレスの社長としても活躍していた馬場さんの病状は、広く知られていませんでした。1999年1月8日には腸閉塞の手術を受け、いったんは術後の経過が良好と発表されましたが、同月24日ごろから容体が急変します。東京スポーツの回顧記事や和田京平さんの証言、ジャイアント馬場の公式年表などを手がかりに、死因の真相、闘病経緯、最期の延命治療を時系列で整理します。
【死因の真相】ジャイアント馬場を襲った転移性肝がんと肝不全

ジャイアント馬場さんの死因を理解するうえで、まず区別したいのが「肝不全」「転移性肝がん」「上行結腸腺がん」の3つです。これらは別々の死因が並んでいるのではなく、病気の発生源と進行、そして亡くなった際の身体の状態を表す言葉です。
馬場さんは、大腸がんが肝臓に転移し、肝不全に至ったとされています。ジャイアント馬場の公式年表には、1999年1月31日に肝不全で亡くなったこと、享年61歳であったことが記録されています。人物事典などでも、大腸がんの肝転移による肝不全と説明されています。
上行結腸腺がんとは何か上行結腸は、大腸のうち右下腹部から右上腹部へ向かって伸びる部分です。上行結腸腺がんは、この部位の粘膜にある腺細胞から発生するがんを指します。
大腸がんは進行すると、血液やリンパの流れなどを通じて別の臓器へ転移することがあります。肝臓は大腸からの血液が門脈を経由して流れ込むため、大腸がんの転移先となりやすい臓器の一つです。
馬場さんの場合、後年の報道や人物事典では、上行結腸腺がんが進行し、肝臓への転移によって肝不全に至ったと説明されています。つまり、肝臓に生じた別の原発がんが死因だったというよりも、大腸を原発とするがんが肝臓に転移したことが、死に至る重要な経過だったという整理になります。
転移性肝がんと肝不全の関係肝臓は、栄養素の代謝、胆汁の生成、有害物質の処理、血液中のたんぱく質の合成など、生命維持に欠かせない機能を担っています。がんが肝臓に広がり、正常な肝組織の働きが大きく損なわれると、肝不全を引き起こす可能性があります。
ただし、馬場さんの肝臓にどの程度の転移があったのか、具体的な検査数値がどのように推移したのか、どの治療が検討されたのかといった詳細は、広く参照できる公表資料だけでは把握できません。
「転移性肝がん」と「肝不全」は同じ意味ではありません。前者は肝臓に転移したがんを指し、後者は肝臓の機能が十分に働かなくなった状態を指します。この違いを押さえることが、ジャイアント馬場さんの死因を正確に理解する第一歩です。
【闘病経緯を時系列で整理】1998年末から1999年1月31日まで
馬場さんの最期をたどると、1998年11月末の体調不良、12月の最後の試合、年末の入院、翌年1月の手術、そして容体の急変という流れが浮かび上がります。
ジャイアント馬場の公式年表と、東京スポーツが2021年にまとめた回顧記事を照らし合わせると、重要な節目は次のとおりです。
| 時期 | 出来事 | 病状・公表内容 |
|---|---|---|
| 1998年11月30日 | 宮城県スポーツセンター大会後に体調不良を訴える | 体調の異変が表面化する |
| 1998年12月2日 | 松本大会を直前で欠場し、東京へ戻る | 東京医科大学病院を受診 |
| 1998年12月5日 | 日本武道館大会に出場 | 生涯最後の試合となる |
| 1998年12月7日 | 精密検査を受け、入院 | 後年の記録では転移性肝がんが判明していたとされる |
| 1999年1月8日 | 腸閉塞の手術を受ける | 当時は癒着性腸閉塞の手術として公表された |
| 1999年1月23日 | 61歳の誕生日を迎える | 和田京平さんが病室を訪れ、会話を交わしたと回顧している |
| 1999年1月24日ごろ | 容体が急変 | 集中治療を受け、意識も低下していく |
| 1999年1月31日 | 東京医科大学病院で死去 | 午後4時4分、肝不全により61歳で亡くなる |
注目すべきなのは、12月5日の最後の試合から亡くなるまで約8週間しかなかったことです。しかも、入院後の一時期には会話ができ、関係者がシリーズの状況を報告していたといいます。
こうした経過から、当時の周囲には、馬場さんが深刻な病状にあることが十分に伝わっていなかったことが分かります。一方で、手術後に会話ができたことや、表向きに経過が良好とされたことだけで、がんの進行が止まっていたと判断することはできません。
【最後の試合】1998年12月5日の日本武道館で何があったのか
ジャイアント馬場さんの最後の試合は、1998年12月5日に東京・日本武道館で開催された全日本プロレスの大会です。対戦カードは、馬場さん、ラッシャー木村さん、百田光雄さん組と、渕正信さん、永源遙さん、菊地毅さん組による6人タッグマッチでした。
この試合は「ファミ悪対決」として知られ、年内最終戦の一試合として行われました。ジャイアント馬場の公式年表にも、この大会への出場が記録されており、国内通算5758戦目とされています。
最後の試合までリングに立ち続けた理由馬場さんは1998年11月30日の仙台大会後に体調不良を訴え、12月2日の松本大会では会場入り直前に欠場を決断しています。東京スポーツの回顧記事で和田京平さんが振り返ったところによると、普段は体調が悪くても試合を休もうとしなかった馬場さんが、この日は強く出場を拒んだため、和田さんはただならぬ異変を感じたといいます。
それでも、12月5日の日本武道館大会には出場しました。結果的に、この日がファンの前でリングに立った最後の日となります。
翌6日からは恒例のハワイでの休養が予定されていましたが、旅行は取りやめとなり、馬場さんは入院することになります。12月5日の試合を最後に、再びリングへ戻ることはありませんでした。
最後の試合と死因を直接結びつけることはできるのか試合への出場と、その後の死去が短い期間に続いたため、最後の試合が病状を悪化させたのではないかと考える人もいる可能性があります。しかし、試合への出場ががんの進行や肝不全を直接引き起こしたと示す医学的な資料は、公表情報からは確認できません。
確認できるのは、試合前から体調の異変が生じていたこと、12月上旬に精密検査と入院に至ったこと、そして翌年1月に肝不全で亡くなったことです。最後の試合は、病状が明らかになる直前まで馬場さんが現役のレスラーとして活動していたことを示す出来事として捉えるのが適切です。
【腸閉塞の手術】なぜ「術後の経過は良好」と発表されたのか
馬場さんの闘病をめぐって、死因とともによく検索されるのが、1999年1月8日に受けた腸閉塞の手術です。手術を受けた事実は当時公表され、メディアには「癒着性腸閉塞のため都内の病院で手術を受け、術後の経過は良好」と説明されました。
しかし、後年の回顧記事では、手術の時点ですでに上行結腸がんが進行していたと伝えられています。このため、当時の発表と、後から明らかになったがんの病状には大きな隔たりがありました。
腸閉塞と大腸がんはどう関係するのか腸閉塞とは、腸の内容物が正常に通過できなくなった状態です。腸の癒着、腫瘍、腸のねじれなど、さまざまな原因によって起こります。大腸がんが腸管を狭くすることで、通過障害につながるケースもあります。
ただし、馬場さんについて当時公表された説明は「癒着性腸閉塞」でした。後年の報道では手術時点で上行結腸がんが進行していたとされていますが、閉塞の直接的な原因や手術の具体的な内容を、公開された情報だけで詳細に再構成することはできません。
したがって、腸閉塞の手術を受けたことと、がんが進行していたことは区別して理解する必要があります。手術が行われたという事実だけでは、がんの治療が完了していたことにも、肝臓の機能が回復していたことにもなりません。
手術後に会話ができていたことの意味東京スポーツの回顧記事によると、和田さんは1月中に病室を訪れ、馬場さんと会話を交わしています。1月23日には、シリーズの報告を聞いた馬場さんが、試合中にけがをした選手について言葉を返したというエピソードも紹介されています。
この証言は、手術後しばらくの間、馬場さんが周囲と意思疎通できる状態だったことを示しています。ただし、会話ができることと、がんや肝不全が医学的に改善していることは同じではありません。
当時の「術後の経過は良好」という発表も、手術後の経過についての説明であり、全身の病状やがんの進行がすべて良好だったと意味するものではありません。この違いが、当時の報道と後年の証言を読み解く要点です。
【病状はなぜ非公表だったのか】馬場元子さんと関係者の証言
ジャイアント馬場さんの病状が広く知られなかった背景には、家族や側近を中心に情報が限られていた事情があります。全日本プロレスの関係者全員が病状を把握していたわけではなく、深刻な状況が団体内の多くの人にも十分に伝わっていなかったと、後年の報道で伝えられています。
東京スポーツが掲載した和田京平さんの証言による回顧記事では、馬場さんが入院中、自分が何の病気なのかを和田さんに尋ねていたことも紹介されています。こうした証言からは、本人や側近が知っていた情報と、病状を把握していた家族との間に隔たりがあったことがうかがえます。
病状が明らかにならなかったことと、隠蔽の断定は別馬場さんの病状が公表されなかったことから、さまざまな推測が生まれました。しかし、病名を公表しなかったことと、不適切な医療行為があったことは別の問題です。公表資料から確認できるのは、当時、対外的には腸閉塞の手術と術後の経過が説明され、がんの詳細や危篤に至る経過が広く知られていなかったということです。
また、後年の関係者の証言は、当時の現場を知るうえで貴重な資料ですが、証言者がその場で見聞きした内容と、医師の診療記録に記載される医学的な事実は同一ではありません。病状の経過については、公式年表や当時の発表と、後年の取材記事を分けて読む必要があります。
馬場さんは、プロレスラーとしてだけでなく、全日本プロレスの経営を担う立場にもありました。そのため、病状が公になれば団体の興行や選手、ファンに大きな影響が及ぶ状況だったことは想像できます。ただし、病状を公表しなかった判断のすべてを、特定の目的だけで説明することはできません。
【最期の延命治療】馬場元子さんが示した判断と和田京平さんの証言
馬場さんの最期について、東京スポーツの回顧記事で特に印象的なのは、亡くなる直前に延命治療が検討された場面です。和田京平さんの証言によると、1999年1月31日、医師から薬による延命が可能である旨の説明があり、家族らに判断が求められたといいます。
その際、妻の馬場元子さんは「馬場さん、頑張ったよね。かわいそうだから、もうゆっくりさせてあげましょう」と話し、延命を行わない意向を示したと報じられています。一方、同席していた姪らは延命を望み、病室では意見が対立する場面もあったと和田さんは振り返っています。
延命治療をめぐる証言をどう受け止めるべきかこのエピソードは、馬場さんが最期の段階で極めて深刻な状態にあったことを示す証言の一つです。ただし、医師が提示した具体的な治療内容や予後の説明、医学的な判断基準について、詳細な診療記録が一般に公開されているわけではありません。
そのため、元子さんの判断を単純に正しい、あるいは間違っていたと評価することはできません。延命治療の選択は、本人の意思、回復の見込み、治療による負担、家族の考えなどが関係する複雑な問題だからです。
和田さんの証言によれば、馬場さんは1月24日ごろから容体が急変し、意識が低下していきました。そして1月31日午後4時4分、東京医科大学病院で息を引き取りました。亡くなった際の状況を伝える証言は、当時の医療判断を検証する唯一の資料ではありませんが、最期の時間を知るうえで重要な記録です。
【プロの結論】死因の真相を読み解くために押さえたい3つの事実
ジャイアント馬場さんの死因をめぐる情報を整理すると、押さえるべき点は3つあります。
第一に、死因は肝不全であり、その背景には大腸がんの肝転移があったことです。上行結腸腺がんが進行し、肝臓への転移を経て肝不全に至ったというのが、後年の人物事典や報道で説明されている病状です。
第二に、腸閉塞の手術は死因そのものと同義ではありません。1999年1月8日に手術が行われたことは確認できますが、腸閉塞の直接的な原因や手術の詳細については、当時の公表内容と後年の報道を区別して捉える必要があります。
第三に、最後の試合に出場できたことは、病気が軽かったことを意味しません。馬場さんは1998年12月5日の日本武道館大会に出場しましたが、その前から体調不良を訴えており、試合後には入院しています。表面上の活動状況と、体内で進行する病気の重さは必ずしも一致しません。
情報を見極める際には、死因を示す記録、当時の公式発表、関係者による後年の証言を区別することが大切です。「腸閉塞で亡くなった」「最後の試合が死因になった」「手術が成功したから病気は治っていた」といった単純な理解では、馬場さんの闘病の実情を正確に捉えられません。
公表された事実と関係者の回顧を組み合わせると、馬場さんはがんが進行するなかで最後までリングに立ち、入院後も一時期は周囲と会話を交わしていました。そして、病状が急変した1月末に、61年の生涯を閉じたのです。
【ジャイアント馬場死因】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:ジャイアント馬場の直接の死因は何ですか?
A1:公表されている死因は肝不全です。後年の報道や人物事典では、上行結腸腺がん(大腸がん)が肝臓に転移したことによる肝不全と説明されています。
Q2:ジャイアント馬場は腸閉塞が原因で亡くなったのですか?
A2:腸閉塞の手術を受けたことは事実ですが、死因として記録されているのは肝不全です。腸閉塞の直接的な原因や手術の詳細については、当時の公表内容と後年の報道を区別して理解する必要があります。
Q3:ジャイアント馬場の最後の試合はいつですか?
A3:1998年12月5日、東京・日本武道館で行われた全日本プロレスの6人タッグマッチです。馬場さんはラッシャー木村さん、百田光雄さんと組み、渕正信さん、永源遙さん、菊地毅さん組と対戦しました。
ジャイアント馬場さんは1999年1月31日、61歳で亡くなりました。死因は肝不全であり、その背景には上行結腸腺がんの肝転移があったとされています。1998年12月5日の日本武道館大会が最後の試合となり、翌年1月8日には腸閉塞の手術を受けましたが、同月24日ごろから容体が急変しました。
当時は病状の詳細が広く公表されず、術後の経過が良好と伝えられた時期もありました。しかし、公式年表、当時の公表内容、和田京平さんの証言を
馬場さんの最期を理解するうえで重要なのは、腸閉塞の手術と肝不全という死因を混同せず、当時の発表と後年の証言を区別することです。リングに立ち続けた巨人の最後の約2か月は、プロレスラーとしての姿だけでなく、病と向き合った一人の人間の姿を伝える記録でもあります。