昭和から平成にかけて、鋭い眼光と唯一無二のニヒルな佇まいで映画・演劇界に鮮烈な足跡を刻んだ名優・根津甚八。2026年を迎えた現在でも、配信プラットフォームや名画座のリバイバル上映を通じてその圧倒的な演技に魅了される新たなファンが後を絶ちません。一方で、ネット上では「根津甚八の現在はどうしているのか」と近況を調べる検索動向が続いています。
結論からお伝えすると、根津甚八さんは2016年12月29日に69歳で逝去されています。唐十郎主宰の伝説的アングラ劇団「状況劇場」の看板俳優として熱狂を巻き起こした青年期から、映像界のトップスターとして駆け抜けた壮年期、そして闘病を続けながら表現者としての矜持を貫いた晩年まで、その69年の生涯はまさに演劇と映画に殉じた人生でした。本稿では、公開された公式記録や関係者の証言を基に、彼の生涯と功績を詳細に紐解きます。
根津甚八の現在と逝去の真相:69歳で迎えた旅立ちと死因

「根津甚八の現在」を追う多くのファンが直面する事実は、2016年末に訪れたあまりにも早すぎる別れです。所属事務所「ユマニテ」の公式発表によると、根津甚八(本名:根津透)さんは2016年12月29日昼、深部静脈血栓症および肺塞栓症のため都内の病院で息を引き取りました。69歳という若さでした。
晩年の根津さんは複数の持病と闘い続けていました。2000年代初頭から重度の腰痛(椎間板ヘルニア)を患い、2001年には右眼の眼瞼下垂手術を受けるなど、身体の自由が徐々に奪われていく過酷な状況に置かれていました。さらに2004年に自身が運転する車による人身事故を起こして以降は公の場から姿を消し、引退状態へ追い込まれることになります。
2010年9月、公式に俳優業からの引退を発表。その後は表舞台に立つことなく療養生活を続けていましたが、2015年に石井隆監督の熱烈な要望に応え、映画『GONIN サーガ』で1作限りの限定復帰を果たしました。これが彼の生涯最後の映像出演となり、それから約1年3か月後に静かに生涯の幕を閉じました。
原点は唐十郎主宰の「状況劇場」:本名・根津透から看板俳優への飛躍
根津甚八さんの表現者としての原点は、1960年代後半から70年代にかけて吹き荒れたアングラ演劇ブームの中心地「状況劇場(紅テント)」にあります。
山梨県谷村町(現・都留市)に生まれた根津さんは、日本大学第三高等学校を経て獨協大学外国語学部フランス語学科に進学しました。しかし、大学の学業や学生演劇に物足りなさを感じていた青年期、劇作家・唐十郎氏の戯曲『ジョン・シルバー』に出会って衝撃を受けます。直接状況劇場の門を叩いた際、唐十郎氏から「芝居を観てから来い!」と一喝されたことで逆に本気配下への加入を決意し、1969年10月に入団を果たしました。
本名の「根津透」から芸名を決める際、当時日暮里に住んでいたことから本人は「日暮里蘭坊」を希望したものの、唐十郎氏が「苗字が根津なら、真田十勇士の根津甚八だな」と即決命名したという逸話は演劇ファンの間で広く知られています。
状況劇場での生活は決して平坦ではありませんでした。劇団からの月給は辞めるまでわずか6万円程度で、サンドイッチマンや道路工事の肉体労働といった過酷なアルバイトを掛け持ちしながら食いつなぐ極貧生活でした。しかし、舞台の上に立った根津甚八の放つ色気と圧倒的な存在感は、入団直後から女性客を熱狂させ、紅テントの楽屋には連日大量の果物や花束が差し入れられたと記録されています。そして1974年の『唐版 風の又三郎』で主役を演じ、名実ともに状況劇場のトップスターへと登り詰めました。
アングラ演劇の旗手から日本映画・ドラマ界の重鎮へと駆け上がった根津甚八さんの主な足跡を、時系列の対照表で整理します。
| 年代・時期 | 主な出来事・活動ステージ | 特筆事項・代表作の記録 |
|---|---|---|
| 1947年12月 | 山梨県に生まれる(本名:根津透) | 日大三高を経て獨協大学に進学 |
| 1969年10月 | 唐十郎主宰「状況劇場」へ入団 | 唐十郎により芸名「根津甚八」と命名される |
| 1972年 | 最初の結婚 | 劇団員同士での結婚生活(後に離婚) |
| 1974年 | 舞台『唐版 風の又三郎』主演 | 紅テントの看板俳優として不動の人気を確立 |
| 1978年 | NHK大河ドラマ『黄金の日日』出演 | 石川五右衛門役で全国的なブレイクを果たす |
| 1980年 | 黒澤明監督の映画『影武者』出演 | 土屋宗八郎役で映画賞各賞を受賞し国際的評価を獲得 |
| 1985年 | 黒澤明監督『乱』、映画『天使のたまご』 | 国内外の名監督から指名される実力派へ |
| 1995年 | 映画『GONIN』出演(石井隆監督) | アウトロー映画の金字塔として高い評価を受ける |
| 2001年〜2004年 | 健康問題の深刻化と人身事故 | 右眼手術、椎間板ヘルニア悪化、事故を機に休業状態へ |
| 2010年9月 | 俳優業の引退を公式発表 | 後遺症と体調悪化を理由に表現の現場から退く |
| 2015年 | 映画『GONIN サーガ』で限定復帰 | 車椅子姿で魂の演技を披露。最後の映像作品となる |
| 2016年12月 | 都内の病院にて逝去(享年69) | 死因は深部静脈血栓症および肺塞栓症 |
映画とテレビに残した金字塔:黒澤明監督作品から『GONIN』まで
1979年に状況劇場を退団した根津さんは、本格的に映画・テレビの世界へと主戦場を移します。すでに1978年のNHK大河ドラマ『黄金の日日』において石川五右衛門役を演じ、その端正かつ陰影に富んだ容貌で日本中の視聴者を虜にしていました。
映画界において彼の実力を決定づけたのが、世界の巨匠・黒澤明監督による1980年の大作映画『影武者』です。武田家の重臣・土屋宗八郎役を鬼気迫る緊迫感で演じきり、毎日映画コンクール男優演技賞などを受賞。続く1985年の『乱』でも次郎の側近・次郎柄直正役を演じ、黒澤映画の重厚な世界観を支える中核として確固たる地位を築きました。
加えて、アニメーション監督・押井守氏のカルト的傑作『天使のたまご』(1985年)での声優出演や、降旗康男監督、工藤栄一監督作品など、硬派な人間ドラマからバイオレンスアクションまで幅広いジャンルで異彩を放ちました。なかでも1995年の石井隆監督作『GONIN』で見せた哀愁漂う元汚職警官役は、90年代日本バイオレンス映画史屈指の傑作として今なお映画ファンの間で語り継がれています。
私生活の歩みと晩年の闘病:支え続けた妻の献身
根津甚八さんの私生活を振り返ると、劇団在籍時の1972年に同じ状況劇場の劇団員と最初の結婚を経験しています。若きアングラ劇団員として互いに切磋琢磨する日々でしたが、後にこの婚姻関係は解消されました。
その後、根津さんは一般女性と再婚。晩年の過酷な闘病生活において、この妻の献身的な支えは不可欠なものでした。2000年代以降、根津さんを襲った椎間板ヘルニアの痛みは凄まじく、歩行も困難になるほど体調は悪化。さらに2004年の自動車人身事故によって被害者が死亡した精神的ショックは極めて大きく、根津さんは被害者遺族への深い自責の念から完全にふさぎ込み、うつ症状にも苦しめられました。
外出もおぼつかない状態となった根津さんを誰よりも近くで支え、励まし続けたのが妻でした。2010年の引退に際しても、妻は根津さんの苦悩と選択を尊重し、穏やかな療養生活を守るために尽力したと報じられています。メディアへの無用な露出を避け、静かに闘病に専念できた背景には、家族による強い守護がありました。
【根津甚八現在】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:根津甚八さんは現在生きていますか?いつ亡くなられましたか?
A1:根津甚八さんはご存命ではありません。2016年(平成28年)12月29日に都内の病院にて69歳で逝去されました。
Q2:根津甚八さんの死因は何でしたか?
A2:公式発表による死因は「深部静脈血栓症および肺塞栓症」です。晩年は重度の椎間板ヘルニアや眼疾患、精神的ストレスなどに伴う療養生活を続けていました。
Q3:最後の出演作品は何ですか?
A3:2010年に引退を発表していましたが、旧知の盟友である石井隆監督の熱望を受け、2015年公開の映画『GONIN サーガ』に1作限りの特別出演を果たしました。車椅子に乗った元刑事役として出演したこの映画が生涯最後の作品となりました。
根津甚八という俳優が日本カルチャー界に残した爪痕は、逝去から歳月が経過した現在でも決して色褪せることはありません。唐十郎氏とともに紅テントで疾走した若き日の反骨精神、黒澤明作品で見せた凛とした侍の立ち居振る舞い、そして石井隆作品に刻まれた滅びの美学——そのどれもが、彼自身の生き様そのものを投影した魂の表現でした。
肉体としての存在は2016年にこの世を去りましたが、数々の傑作フィルムと舞台の伝説のなかに、根津甚八は今も鮮烈な光を放ち続けています。